昔ダイアリーノートに書いた自分の文章に励まされた。
**************
2004年1月22日
夏越の祓い
年末の大祓い
春節(立春・農暦元旦)前日の豆まき
全てが季節の分かれ目に行う厄祓いの儀式。
昔の人達は、自然相手に、出来るだけ神様を怒らせない様にして、良い出来事の方が多いように、災いから逃れられるように願って親から子へ伝えていった。
神(自然)は祟るもの、だから奉って当然。
これは山岸涼子作「日出処の天子」の中で、聖徳太子ことウマヤドノオオジが言った言葉だが、厄や祟りとはなんだろうか。
人は自分の身に悪い事が起こると、「何かの祟りか」とか「厄日か」などという事がある。
勿論、地球を包む磁場は常に一定とは限らないから、時に強弱があるだろう。
引力によって水面に波が出来るように、磁場にもゆるゆるとした波があるのだろう。
その波が強く働く処に出くわして、思わぬ怪我をするかも知れないし、大きな病気を発症するかも知れない。
でも、それは闇雲に出くわすんだろうか ?
まったく、ランダムに出くわすんだろうか ?
予定していた電車に乗り遅れた時など、通常通りに乗ってたら事故にあったかも。と思う事はないか ?
そうかもしれないよ。
誰かが守ってくれてるのかもよ。
わしゃ、よう知らんがの。
「あの人、私を玄関先で門前払いしたのよっ」
6年前に、健康食品販売の仕事を始めた義妹が、上司と同僚を伴って私が店番をしていた店に来た後、舅姑に言った言葉。
その時、彼女は私も一緒に仕事をしないかと誘いに来たのだった。
健康食品がどうのの問題ではなく、その商法に疑問を持っていた私は、彼女の上司に向かってはっきりと断った。
それが気にいらなかったらしい。
自分の思い通りにならなかった相手に対する怒り。
「玄関先で門前払い」の言葉に怒り心頭になった義弟が、電話で怒鳴り込んで来た。
「来たのは店だし、ちゃんと相手をしたぞ」
「え? 話が違う・・・」
事の真実を正そうと、義弟はもう一度姉に確認したそうだ。
そしたら彼女は「行ったのは店よ。でも応接セットがあったのに、座らせてくれなかったの」とのたまったそうだ。
で、私は義弟に店の鍵を渡して「今から調べに行って、本当に応接セットがあるのか、そんな大層な店なのか、自分の目で見て来い」と言ったら、彼はその時点で、姉がウソを付いているのを確信して、私と師父に「ごめんなさい」と頭を下げて謝ってくれた。
舅もわかった。でも、姑は違った。
これは彼女の言動の、ほんの一部。こういう行動を取ったのは、私相手ばかりではないと思う。一時が万事だ。
今日彼女は緊急入院をした。
私と師父が付き添って。
折りしも生理が始まってしまい、点滴の針を入れている不自由な手では処置がしにくく、私がトイレ介助した。
彼女はどんな気持ちでいただろう。
私の心は、まるで「凪」だった。
自分でビックリしたが、本当に凪だった。
何とも思わなかった。他人の汚物処理なのに、何とも思わなかった。
ビックリした。
あんなに憎んだ相手なのに・・・。
あんまり憎み過ぎて、「このまま憎んでたら癌になる」と思った程憎んだ相手。
その後、私は思い切り心身のバランスを崩した。勿論その事ばかりが理由ではないが・・・。
そして、大阪でぼんぼん先生と出会う。
彼女にとっての、救いの手は、誰だ ?
陰口を利いてバカにしていた義弟の妻が、一生懸命家族の情報センターになり、通院の足になってくれている。
迷惑をかけられた兄弟が、今、全員彼女第一に考えて動いている。
彼女は、格別悪い種ばかりまいていた訳でもないようだ。
良い種も、沢山まいていたのだ。
人は、人生の中で、自分が蒔いた種から出た実りを収穫しながら生きている。
災いも、良い事も、自分が蒔いた種から出た穂であり、実でもある。
人生、そんなに捨てたものでもない。
自分は何の為に生きているのかを考える前に、どんな種を蒔けるのかを考えたほうが、よっぽど面白い。
結果は、わかり易くて、第一正確だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿